本文へスキップ

相馬外天会についてprofile

  相馬外天会の「外天」は、奥州相馬氏16世・相馬長門守義胤(1548〜1635)の御法名から頂戴したものである。外天公は戦国最後の相馬家の殿様(当時、小高城主)で、御生涯の大半が隣の大国・伊達家との抗争に過ごされたといっても過言ではない。天正11年(1583)には伊具郡丸森城、翌年には金山城(共に宮城県丸森町)が伊達家16世・輝宗に返還され、更に、同17年(1589)に宇多郡駒ヶ嶺・新地両城(福島県新地町)が17世・政宗に奪取されるに及び、相馬家は風前の灯火になった。しかし、義胤は伊達家に屈従するよりは、最期まで徹底抗戦して武門の意地を貫く決意をされた。この御決意に、家臣も庶民も団結して生死を共にすることを誓い合ったと伝えられている。幸運にも、政宗が会津の芦名家を滅亡させたことが太閤秀吉の怒りを買い、会津を召し上げられ米沢へ戻されたので危機は去ったのである。又、慶長5年(1600)関ケ原の役の際、相馬家は徳川幕府の出兵要請に応じなかったことで、同7年改易の憂き目に遭った。義胤は潔く領地一切を幕府に引渡し、三春蒲生領大倉村に隠居されたが、同時に嫡子三胤(密胤、後の中村藩初代藩主・大膳亮利胤)を江戸に登らせ、幕府に相馬家の無実を訴えさせた。その結果嫌疑は晴れ、同年中に行方・標葉・宇多3郡48,700石は回復された。幾度も危機に瀕しながら、平和な江戸時代を迎えることができたのは、まさに奇跡としか言いようがない。外天公義胤の勇気・寛容・気高さが、家臣・領民に対して強いリーダーシップを発揮し、幾多の危機を乗り越え領土を保ち得たのであった。そして、苦難の御生涯であったにもかかわらず歴代藩公中、最高齢の88歳の天寿をまっとうされ、相馬武士の鑑(かがみ)とされた名君である。当会は旧相馬領内の歴史的文化に触れ、郷土の活性化に寄与することを目的とした草莽(そうもう)の士の会である。未来を信じて力強く活動を進めるために、ふるさとの英雄「外天公義胤」に御守護を仰ぐ意味で、会名を「相馬外天会」としたのである。

contents

相馬外天会

inserted by FC2 system