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相馬地方の歴史情報

奥州相馬の成立

元亨(げんこう)3年(1323)相馬家6代孫五郎重胤公、下総流山より下向、行方郡太田の別所館に移る。
《令和元年で696年》
外天公相馬長門守義胤

相馬家16代。父弾正大弼盛胤(だんじょうたいひつもりたね)、母伊達郡掛田義宗の娘。天文17年《令和元年で471年》小高城で誕生。寛永12年11月16日逝去。齢88歳《令和元年で384年》
中村城の築城・開府

慶長16年(1611)7月着工、12月2日落成。17代大膳亮利胤公は小高城より中村城に移り初代中村藩主となる。築城奉行は木幡勘解由長由。
【令和元年(2019)で408年】
相馬中村藩6万石の確定
寛永6年(1629)1月。藩主は18代相馬虎之助(後の大膳亮)義胤。当時の将軍は3代家光。天正18(1590)12月、関白豊臣秀吉に48,700石を安堵されて以来同高であった。《平成20年で397年》
關流炮術
江戸時代初期の關八左右衛門之信(1596〜1671)を流祖とする。はじめ上杉家の丸田九左右衛門盛次より炮術(霞流)を学んだ之信は、その後江戸へ赴き、幕府炮術師の稲富宮内重次(稲富流)、幕府鉄炮術方の井上外記正継(井上流、外記流とも)・田付四郎兵衛(田付流)ら著名な炮術師と交流し腕前に磨きをかけ、自ら一流を創始するにいたった。
 寛永年間(1624〜1643)には上総久留里藩の土屋利直(1607〜1675)に500石の知行で召抱えられ、利直自らも之信に炮術を学ぶなど、之直の創始した關流炮術はおもに土屋家中で発展・隆盛していく。
 慶安4年(1651)3月5日、中村藩2代藩主・相馬義胤が継子のないまま死去、承応(じょうおう)元年(1652)2月8日、久留里(くるり)藩主・土屋利直の二男・式部直方が義胤の養子になって、中村藩3代藩主・相馬勝胤(寛文3年8月14日「忠胤」と改名。以下忠胤と記す)として跡を継いだことにより、中村藩では忠胤の出身地・土屋家を中心に盛隆していた關流炮術を導入した。
《令和元年で367年》
關流炮術演武
 
打始め
 星場で最初の一放は神事の後指南筆頭が行う習わしになっている。
立放し(たちはなし)
 両足を踏ん張り、上躰を直に腰を据え台尻を頬に付けて両腕で構えて放す。
中腰(なかごし)
 両の膝を地につけて、腰を延ばして銃の構えは立ち放しに同じ。
中放し(なかはなし)
 座して、上躰を直に腰を据え、銃を構えて放す。
膝台小目当(ひざだいこめあて)
 座して左の膝を立てて、銃を構えた左肘をのせて放す、最も安定した姿勢。
膝台町打ち(ひざだいちょううち)
 膝台と同じ姿勢で、銃身に仰角をつけるので銃の台尻は腰に付けて構える。
据台(すえだい)
 人が抱えられない大きな筒は仕掛台又は車台で放す。砲の部類となる。
釣瓶打ち(つるべうち)全員で連射、稽古射撃最終日に全員が引き金を引 く呼吸、拍子を合わせる修行として釣瓶打ち連射をした記録が有る。稽古総 仕上げの意味である。
廃藩
明治4年(1871)、最後の藩主は因旛守誠胤。《令和元年で148年》


大坪流馬術    室町時代前期、幕府の御厩奉行をつとめた大坪慶秀(廣秀とも。のち剃髪して道禅と号す)を流祖とする。戦国時代、中興の祖といわれる斉藤好玄(生没年不詳)が、門戸を大きく開いたことで広く普及した。また、弟子たちは「荒木流(流祖・荒木元清)」「佐々木流(流祖・佐々木義賢)」などの分派を形成した。中村藩には、大坪流の分派・佐々木流の系譜を受け継ぐ三間勘助(もと浪人、のち備前国岡山藩主・池田光政に仕える。生没年不詳、諱は長知もしくは長矩とも)により、寛文9年(1669)中村藩3代藩主相馬忠胤、中村藩士の泉田浅之丞胤治(不立軒と号す)および、寛文11年(1671)門馬孫太夫経直へ馬術を伝授したことがはじまり。門馬彦九郎常朝が泉田より馬術を学び、以降は門馬家が中心となり佐々木流系の大坪流馬術を継承していくこととなった。
 日置流印西派弓術  
日置流は室町時代の15世紀におこった弓術で、江戸時代に入ると諸派に分かれて発展した。印西派は吉田印西(号は一水軒、1562〜1638)によって始められた流派で、江戸初期に徳川家の信任を得て印西派弓術繁栄の基礎を築いた。中村藩では印西派・雪荷派などが行われたが、印西派が主流であった。中村藩には吉田一水軒印西に学んだ稲葉八太夫吉重によって伝えられた。吉重は初代中村藩主・相馬利胤(1580〜1625)に召抱えられ、2代藩主義胤には秘伝を伝授するなどし、その子八太夫信重は3代藩主忠胤の代に家老になるなど活躍した。以降その弟子たちが技術を継承し続けた。江戸時代後期に藩の足軽が再編成された際、多くの弓組が鉄炮組に編成替えされたが、塩崎組(鹿島区塩先)のみは本陣詰の弓組として残された。現在は中村藩日置流印西派弓組保存会(南相馬市鹿島区塩崎)が伝承しており、南相馬市に無形民族文化財に指定されている。


   名君相馬忠胤公と相馬中村藩關流炮術

 
忠胤公木像(小高・同慶寺所蔵) 


奥州相馬家19代(相馬中村藩3代藩主)忠胤公は、上総国久留里(千葉県君津市久留里)の城主・土屋利直公の次男として寛永14年(1637)ご誕生。16才の時、婿養子として相馬中村藩主となる。この殿様はとても聡明な方で、延宝元年(1637)わずか37才で亡くなられるまで、農政・行政・軍事などに数々の改革を断行し、貧しかった中村藩の国力を大きく増大され、《相馬家中興の祖》と仰がれた天下有数の名君であった。相馬家は歴史の古い外様大名であったが、忠胤公の時からは、徳川幕府から譜代大名に扱われ、江戸城中での詰所も帝鑑ノ間となった。相馬といえば、相馬野馬追が世に知られている。これは相馬家の古い祖先である平将門が関東で始めたとされる軍事演習であり、元亨3年(1323)、相馬家が奥州に移ってからも永々と行われてきた。忠胤公は、この野馬追をさらに機能と効率を高めるために種々の改革を行った《紙面の関係で詳細は省く》。野馬追は2代後の昌胤公の時に理想的な完成を見たといわれ、武田流軍法として、相馬中村藩独自の戦術の基本となった。そして、忠胤公はご実家・土屋家の自慢の炮術流派である關流(正式には南蛮流)を当藩に導入した。土屋家の炮術指南役で關流の開祖・關八左衛門之信の全面的な協力を得て、忠胤公は關流仕様の鉄炮製造の技術を修得させるため、鉄炮鍛冶・台師・金具師のチームを近江国国友へ派遣した。当時、本邦随一とうたわれた鉄炮鍛冶の国友丹波宗俊に、關八左衛門は自らの設計した鉄炮を注文製造させていたからである。300目玉大筒(口径57mm)までの製造技術を修得した鉄炮鍛冶チームは、帰国後忠胤公の命令で大量の鉄炮や大筒が製造された。特筆すべきは、10匁筒(口径約19mm)を800丁も作り、その内600丁を足軽用として渡したことである。一般的に10匁筒以上は侍筒といい、足軽筒は6匁〜3.5匁程度の細筒が使われていた。故に10匁筒の足軽筒は300諸藩でも極めて珍しい。理由を憶測すれば、隣の62万石仙台藩の主力銃が4匁筒(口径14mm)だったからではないだろうか。10匁筒の最大射程は最大俯角で1000mを超え、4匁筒は600m程度といわれるから、相馬6万石の10倍以上の強大な伊達家の勢力に対抗するために、長射程で強力な鉄炮を持った600人の足軽部隊を確立する目的だったと思われる。年に一度の野馬追において、お行列(統制のとれた隊列)・多数の騎馬隊・お駆引(部隊単位の作戦行動)と強力な鉄砲隊など、藩総力を挙げて訓練し、幕府の藩屏として、いつでも戦場に臨めるように、という忠胤公の 強いご意思とご覚悟が反映されている。
      


●相馬中村藩唯一の火縄式炮術の流派であった關流は、初期は久留里藩、その後は常陸国土浦藩主土屋家の江戸詰の指南役で、流派の宗家である關氏の指導を受けた。当藩の指南役となるべき家柄の子弟や江戸詰の藩士は、江戸麻布の土浦藩下屋敷内の角場(射撃場)において、代々の關宗家の指導を受けた。指南役の子弟は長年かけて印可を受け資格を得た。指南役を継承した者(概ね、井戸川・鈴木・上野の3家の系統)は、多くの藩士を弟子として育成した。流派が一つなので、多くの他藩のように、他流派混在の場合と異なり、藩士は修得しやすかったと思われる。幕末に、幕府の命令で西洋流が導入されてからも、關流は併修された。しかし戊辰の戦争を経て、明治廃藩に至り、關流は相馬での200年の歴史を閉じた。  
  


●平成5年11月、当会会長があるテレビ番組で關流の存在と、八左衛門直系11代目の宗家・關正信先生(土浦市在住)の存在を知った。それが機縁となり、相馬外天会と關先生の交流が始まり、平成6年の野馬追の時から、相馬市の城内・長友グランドで土浦藩關流炮術の演武が毎年行われるようになった。私共の相馬外天会の会員からも入門希望者が引き続き、先生の流儀に則したご指導を頂き、平成10年に相馬中村藩關流炮術として独立を認められ、現在に至っております。相馬外天会の炮術部員は全員とも相馬武士の気概を持って、貴重な伝統武術継承のためがんばっております。


             相馬市大洲海岸で行われた炮術訓練

 嘉永6年(1853)米国のぺりー艦隊が浦賀に来航し開国を迫ったことにより、幕府は海防の強化を迫られ、諸藩に大船建造の解禁、西洋流の砲術と銃砲の製造などを許すところとなった。相馬中村藩では、同年から翌年の安政元年までに銅唐金製の5貫目・36貫目・6貫目・3貫目臼砲などの火砲の入手を続々と進めた。
 そして、安政2年(1855)7月25日大洲において、各種銃砲を使用して遠町打(長距離射撃)の実験的訓練を行った。参加者は総勢108人で、南蛮流(關流)の指南役の鈴木重左衛門・井戸川仁平太・上野庄兵衛の門弟のみで構成された。藩主相馬充胤公も家老衆を従え検分された。この時使われた銃砲は10匁・30匁・50匁・100匁・200匁・300匁などの旧来の火縄筒と、完成間もない5貫目・6貫目・3貫目臼砲などの鋳筒大砲であった。距離は8町(872m)から25町(2725m)までで、使用した弾種は鉛玉・鉄玉・棒火矢・ホウロク玉・焼玉・光玉(照明弾)・ブラントサス(焼夷弾)・数玉(榴散弾)・トベリ打(弾を水平に打って転がし目標地で破裂させる)など様々で、個々の弾着の実績や威力が詳細に記録された。
 36貫目の大砲は固定式の巨大なもので、原釜湊の防衛のために昔の笠岩の手前の高台に据え付けられた。この1門に10人もの人数が必要とされ、操作が大変なため「やっかい筒」と酷評されたという。戊辰戦争の時、中村藩は官軍に降伏後は、敵となった仙台領攻撃のため駒ヶ嶺方面に向きを変え発射したので、敵兵は轟音と36貫目玉(135kgの鉄玉)の巨弾の威力に震え上がり原釜の攻略はできなかったという。それにしても海に突き出た今は無き笠岩の景観が懐かしい。
 太平洋戦争末期、大洲海岸にアメリカ軍が上陸する事を危惧し、軍は松林の中に砲兵隊の陣地を構築することになった。その整備などに多くの民間の人手が必要であった。
 このように、大洲海岸は美しい海浜である反面、江戸時代も戦時中も海防の重要な海岸でもあった。


《36貫目砲台が置かれた場所(木立辺り》     《幕末の中村藩の砲兵隊》


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相馬外天会

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